今日は子供の日であることから、子供の教育について考えてみたい。長い間、我が国が行ってきた教育が時代に合わなくなってきているのではいかという話である。
少なくとも現在の我が国の教育についていえば、基本的には、決められたことを早く正確に遂行するための教育内容となっている。試験も、普通は一つの正解があり、その正解にいかに早く正確にたどり着くかが競われる。間違いは恥とされる。
しかし実社会ではどうだろうか。実社会で求められるのは、自らの頭で考え、新しいものを生み出す能力が高く評価される。上述のような決められたことを早く正確に遂行する人は80年代くらいまでは評価されたかもしれないが、21世紀に入ってからはそれほど評価されるものではない。
投資家目線でいえば、決められたことを早く正確に遂行する人は、株主のために働く人間としてふさわしい。資本主義社会では、株主がビジネスに投資し、そのビジネスを遂行する人間がいる。このような株主に尽くす人間が求められるのである。株主に尽くす人間がいなくなることは、株主にとって都合がよろしくない。
加えて、国の立場から言うと、このような優秀な人材が企業等で働き、多額の納税を確実にしてくれるのは都合がよい。なぜなら、昨今のビジネスはグローバル化しており、国としてはビジネスの国際競争に負けないために、法人税をこれ以上上げるわけにはいかないという事情がある。そうすると、個々人の優秀な人材から徴税するのが確実かつ最も効率が良い。
具体的に、筆者が受けてきた教育でいえば、微分積分や代数幾何などの高度な数式処理は論理的にものを考えるという意味では全く無意味ではなかったともいえるが、社会人になってからは役立っていない。論理的な考え方ということであれば、法務を学んだほうがずっと役に立つ。また、英語も英語を使わない仕事のほうが多いため、仕事などで使わない人にとってはほとんど役に立たない。それよりも日本語を磨くことのほうが大切である。実社会では日本語のきちんとした書面を作る機会のほうが圧倒的に多いが、間違った日本語を用いている例がまま見受けられる。テレビを見ていても、選挙の後などは、「過半数を超えました」とさかんに繰り返している。「過半数になりました」とするか、「半数を超えました」とするのが正しい日本語である。
また、お金の勉強をすることは実社会で大変役に立つが、お金の教育は高校生まではまずなされない。お金とは何か?この質問に答えられるだろうか。それはさておき、筆者の受けてきた教育のなかでは、文化祭の際にたこ焼き屋を出店していかに店を回すかのほうがよほど役にたった。原料をどこからどのように仕入れるか、宣伝広告をどうするかなど、ビジネスの基本が凝縮されていた。また、中学生の時に縁あって生徒会長を務めたことも役立っている。実際、社会で働いていると、自身の属する組織の中でいろいろな人がいろいろな意見を持っている。こういった意見を集約し、組織を一つにまとめあげることは当時は苦労したが、社会人として現在はとても役立っている。
努力は大切ではあるが、その努力のしかたを誤ってはいけない。現在ある教育の枠にこだわる必要はない。社会人として最低限の読み書きなどの能力は必要だが、そこから先はある程度試行錯誤が必要かもしれない。しかし、それはそれでよい。実社会の仕事は試行錯誤の繰り返しだからである。失敗を恥じていては成功はない。筆者の子供には、自身の頭でしっかり考える力を身に着ける教育をしたいと考えている。