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日本人が苦手とする双方向のコミュニケーション

今回は、総じて日本人が、ディスカッションに代表されるような双方向のコミュニケーションに強くないということについて書いてみたい。最近、英会話講師で米国人と日本人とのハーフで、中学校までは米国で学び、高校以降の教育を日本で受けている方とこの点について話す機会があり、大変興味深かった。両国では、学校の教育のスタイルからしてかなり異なる。以下、ややステレオタイプとなるかもしれないが、記してみたい。

例えば米国のような欧米先進国と呼ばれる国との比較でいえば、欧米の学校の授業は双方向のものが多い。あるトピックに対して、各々がどう考えるか、その考え方を生徒が表明し、それに対して、教師や他の生徒が批判するなりして意見を表明する。授業は基本的には会話のキャチボールで、対話形式であるべきという発想がある。そこでは、自らの頭で考え、自らの意見を持つことが求められる。当然、生徒から教師への質問も多くなる。

これに対し、日本ではどうか。日本の教育現場では教師が授業をし、それを生徒が聞くというスタイルが従来から一般とされる。そこでのコミュニケーションは一方通行であり、自分の頭で考えるというよりも、教師の話したことをいかに正確に暗記するかが求められる。したがって、生徒から教師への質問も総じて少ない。

教育現場がこうであるから、社会人となってからの発想も両国ではかなり異なる。米国企業の仕事においてはコミュニケーションは常に双方向であり、自身の考えを持っていないと低く評価される。また、会議での発言がないと会議に貢献していないとみなされ、大きく評価が下げられてしまう。

これに対し、総じて日本の企業では、上司から言われたことを一方的に聞き、それをいかに正確にこなすかが求められることが多い。上司に意見する人は組織に適合できない人間とみなされ、評価を大きく下げられてしまう。このように、コミュニケーションスタイルの点から言うと、両国は180度反対の発想であると言っても過言でない。日本人がなぜこのようなスタイルとなったかは、日本人が持つ「お上」意識が深く関与していると筆者は考えているが、ここでは詳しくは触れない。

この点に関しては、我が国が必ずしも欧米のスタイルに合わせる必要がないという批判はあろう。それ自体は理解できなくもない。もちろん、日本には日本のよいところは多々ある。ただ、問題は、グローバル化が進む昨今において、競争の中でどちらの人材が生き残るかということは考えておく必要があろう。変化が大きく不確実性が高くなってきた現代社会において従来型の日本のスタイルが今後も通用するであろうか。絶対的な考え方というものが通用しなくなってくるなか、各々が模索してゆく過程において、よりよいものに到達するにあたって、議論は必要なことではないだろうか。

この双方向のコミュニケーションはトレーニングでいくらでも身に着けることができる。実際、筆者は30代以降にロースクール、ビジネススクールでこの欧米型の双方向の教育スタイルでトレーニングを受け、その後、外資系企業に就職し、自身の考えをはっきり英語で表現してきた。今からでも遅くない。

ただ、米国人などと仕事をしていて、会議などで「あなたはどう考えるか?」と次々と聞かれると、こういったスタイルに慣れていない日本人はどうしても見劣りしてしまう人が多い。米国人に圧倒されてしまう場面を筆者はよく見てきたが、実はよく聞いてみると、その米国人も大したことは言っていない。日本人が自身の頭の中だけで考えていて、発言しようかどうか迷っていることのほうがよほど他の人に貢献する内容のことが多い。まずは、思い切って自身の考えをはっきり表明してみてはどうだろうか。