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人は変えられない

人にもよるが、一般に、成人となり仕事を始めると、周囲の人との見解の違いから摩擦が生じることがある。この際、自身の意見が正しい、相手の意見は間違っていると相手を攻撃することにエネルギーや時間を費やすことに、近頃疑問を感じるようになった。

自身の意見が間違っていると信じながらそれを主張する人は少ないだろう。多くの場合は、自身の人生観や信念に基づいて自身の意見が正しいと主張する。こういった相手の意見を、数分や数十分の時間で変えようとすることに無理がある。こういった相手の意見は、前述したように、その人が何十年という長い人生をかけて形作ってきた人生観や信念に基づいている。これをたかだか数十分で変えてしまおうとすることに無理がある。

よく、社会における様々な組織において、自身の意見は正しいといって、相手を攻撃したり、説得したりするなどして、相手の意見を変えようとする人がいる。これが各論的な個別のことで、その相手の人生観や信念に関わらないことであれば、相手の意見が変わることもあるかもしれない。しかし、もっと本質的な部分から相手を変えてしまおうとするのは時間の無駄である。人生は短い。人生百年時代とはいっても、たかだか百年である。そのような人を変えようとする時間が徒労に終わることが始めから分かっているのであれば、その自身の時間はより有意義に使うべきではないだろうか。

そうはいっても、相手との見解が違うと気が済まないという人もいるかもしれない。この場合は、自身が変わることも一つの方法かもしれない。相手の意見に対し、なるほどそのような考え方もあるのだなとそれなりに理解し、余裕を持って相手と折り合いをつけてゆければ、他のより有意義なところに自身の人生の貴重な時間を使うことができるかもしれない。

ここでは、自身の信念を曲げろとか、そのようなことを言っているのではない。信念を持つことは、自身の頭でしっかり考えた結果であり、むしろ尊重されるべきものである。より分かりやすく言うならば、自身の信念を貫くべき場所は他にあるのではないかということである。自身の時間の使い方を誤ってはいけない。自身の時間は自身の人生そのものであり、限られている。その貴重な時間をなんら意味のないことに使っている余裕などないのである。